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阿彌陀如来
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当山のある書写坂本は古くより渡来人の里(韓室(からむろ)の里)として知られ、付近には新羅の王子が建立したと伝えられる峰相山鶏足寺(戦国時代に焼失)や、高麗の僧慧便が建立した増位山随願寺、また渡来の神様で仏法の守護神である牛頭(ごず)天王をまつった広峰神社や書写山の白山神社など大陸のかおりがする史蹟が存在する地域である。
当山に伝わる室町時代の史料である、阿彌陀寺伽藍再興勧進帳によれば長久2(1041)年、養李上人の開基とされているが、上記の渡来人の里であることや開山上人の御名前が養李であることなどから、隣にある医王山安養寺、福壽山圓蔵寺などとともに奈良時代以前の古い時代に渡来系の人たちによって開かれた寺院ではないかと言い伝えられている。
その後、弘安10(1287)年一遍の書写山来山以後は時宗道場にもなったと云々。さらに応永5(1398)年兵火で焼亡するも室町幕府四代将軍 足利義持は播磨守護 赤松義則及び播磨国衙眼(目)代、小河玄助に復興を命じ、山林田野を寄進し、護国利民の道場として再建。永享4(1432)年以来、室町幕府の2人の将軍が来駕、公武長久の祈願等を行い、寺運大いに栄える。
大永3(1523)年、山名氏と浦上氏の戦いによる兵火により再度焼亡。その後、天文22(1553)年頃より伽藍建立のための勧進が行われ再興。
江戸期にいたり、享保3(1718)年5月と文化10(1813)年10月に焼亡。現在の本堂は文化10年10月の火災後のものである。
また安政2(1855)年頃、住職快圭が創設した寺子屋「共同会」は明治26(1893)年頃まで存続し、教師は代々の住職がこれにあたり、地域住民の教育に大きな役割を果たした。
昭和42(1967)年、県立姫路工業大学の書写山麓移設により、現在地に移転改築。同年10月完成。
現在、境内は樹木がうっそうと茂り、野鳥や木の枝に卵塊をつくるモリアオガエルなど小動物の生息地として、またフウラン、セッコク、エビネ、シラン等ラン科植物も多く、秋には鹿の鳴き声も聞くことができる絶好の環境で、参詣者の憩いの場となり「花と緑の寺」として親しまれている。
毎年、11月23日の天台大師報恩法要の際におこなわれる無病息災祈願の「大根焚」は地域の風物詩としてよく知られており、遠く大阪方面よりも参詣があり、殷賑をきわめる。 |
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